ストレスをなくすことについて


自分の、雑誌の編集についての仕事について、考えてみた。


「編集」とひと言でいっても、状況によってその意味は微妙に異なる。

「どういうものを作ろうか」というアイデアをまとめるのは編集「企画」だといえるし、企画したものを作るために取材をして、素材を手配したり原稿を整理したり、校正をしたりというのは、編集「作業」というのだと思う。


「企画」したものを「作る」。

これはどのような仕事にも共通する課程ではなかろうか。


さておき。

よく「編集もできるんだったら〝込み〟でやってよ」みたいな話があるが、その場合の編集とは、たいがい「作業」のことではないか。


加えて、企画を実現するために著者にお願いをしたり、取材の日時を決めたりスタッフィングをするなどの「調整」も、編集の中で非常に大切なプロセスである。

上の「編集もできるんだったら~」というファジーで時に(言い方によっては)図々しい響きを多分に含むことさえある依頼の中に、この「調整」が含まれる(つまり、取材の手配~校了まで面倒みてください、という案件だ)と、何かと厄介である。予想外に(?)時間が取られる場合があるのだ。クライアント仕事だったりするとなおさら……というのが、私の経験上の印象だ。

本来だったら原稿を執筆する(あるいは、そのための調査をする)作業に集中したいときに、「調整」に関わる事案が出現すると、そのつど作業を一時ストップせざるを得ないのである。


自分にとって、これは大いなるストレスだ。


いや、昔はそれほど苦にはならなかったかもしれない。たぶん、それだけの体力もあったのだろう。また、そういうのが全く苦にならない、逆に「いい気分転換になる」という人もいるだろう。

しかし、ここ数年の私は、そのようなマルチタスクに耐えられるパワーや集中力が損なわれてきているのを感じている。

いま「マルチタスク」と書いたけれど、そうなのだ。

編集「企画」と「作業」、また「調整」、そして「執筆」というのは一緒くたにされがちだけど、全くもって違う性格を持った仕事なのである。


また、おこがましい話ではあるのだが、「これは本当に自分がやるべき仕事なのか」という疑問が湧き上がる度に、ストレスが大きくなってくるのも感じるのだ。

つまり、だんだん「自分がやりたい(あるいは、やってもいいと思う)仕事以外でストレスを感じる」ことへの抵抗が大きくなってきているのが現状なのだと思う。


考えてみれば、さもありなん。

刻一刻と、自分が生きていられる時間が少なくなっているのだから。

ストレスなんてないほうがいいに決まっているさ……。


と、いうことで、昨日、ひとつミーティングがあったのだが、「編集もやってよ(調整込み)」系の依頼を、申し訳ないのだが断らせていただいた。

いや、正確には、「編集『作業』はやっても構わないが、『調整』は勘弁してくれ」という条件で受けることにした。調整の結果、スケジュールが合わなくて自分の仕事が減ってしまっても構わない。今回は、ほかの仕事との兼ね合いも考えて、そのほうが結果的に相手に迷惑をかけないで済むだろう、という判断だ。

そしてこの場合、「成り行き上『調整』も行わざるを得ない展開になってしまう」のを全力で回避する必要がある。


また、「『作業』にプラスして『調整』に関しての報酬も勘案されているか」ということもチェックする必要があると思う。

実際のところ、報酬だけを基準に考えられるケースは多くなく、だいたいの場合は発注元との人間関係もあるので、時に心を鬼にする覚悟が必要になる。今回もそうだ。


その案件は、実は先日に「調整」込みでやった結果、その「調整」のスケジュールが最優先され、しかも(不運なことに)急な変更が相次ぎ……自分の予定が全く立てられなかったのだ。

笹原の家をなるべく早く運用できるようにすることが大きな命題となっている今、現地に行く計画が立てられないのは辛い。

その辛さが、ストレスにつながるのである。


ということで、ストレスを感じるのなら、自分が納得できるもののほうがいいし、あるいは後々になったら心地よく(?)感じられるようにしたいものである。

そんなことを思いながら、先日茅野で買った来たエイトピークスのペールエールをいただいた。

キレがあって爽やかな味わいだ。

私の椅子はどこに

2022年11月に50歳を迎え、第二の人生が始まり、これからいろんなことがドラスティックに変わっていく――。 なんて、勝手に思い込んでいるフリーランス山﨑の、日々雑感です。 編集やライティングの仕事に加え、2021年に宅地建物取引士の資格を取得したので、仕事にも幅を持たせようという話、 あるいは趣味のギターやエンタメなどの話をしていきます。

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